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マウスの難産 [医療]

お産にまつわる、医療事故や医療訴訟を聞くたびに胸が痛みます。

お産はおめでたい事です。
元気な赤ちゃんが生まれてくる事をみんな祈っています。

いや、祈ってくれていたらいいんだけど、
当然の事だと思っている人が多いようにも思います。

でも、お産は、母子ともに、人生の中で生きるか死ぬかの瀬戸際です。
何がおこるかわかりません。

先日、マウスがお産で死にました。
マウス、そう、ねずみですよ、ねずみ。

わたしはマウスの新生児に細胞を移植する実験をしていますが、
予定日になかなか生まれない、と思ったら、
翌日にもうまれない、、、
そしてその翌日には、母子ともに死んでおりました。

マウスなんて妊娠期間19日、一度に8−10匹も生まれる、超安産の動物です。
ねずみ算式、っつーくらい、どんどん生まれてどんどん増えます。

が、こんな超安産の動物のネズミですら、お産で死ぬのです。
人間ごとき、動物に比べたら超難産の生き物が
毎回無事に赤ちゃんを産めるというのは、本当に幸せな、ラッキーな事なのです。

ともかく。
ああ、マウスでもしんじゃうんだ、、と思ったのでした。
そういえば大学院時代、
「いやー、マウスが難産でねー、
胎児が出かかっているけどでないみたいで、僕介助してみたんだけど、
だめでした」
といってた後輩もいたなあ。

周産期新生児死亡率は、、、
マウスのほうが高いかなあ?もしかして。
赤ちゃんが弱っていたり、
お母さんマウスがお乳がでなかったりすると、
お母さんマウス、自分でばりばり子供を食べちゃうもんねえ、、、、、。
おそるべし。


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ネットサーフィン後のひとり言 [医療]

ネットで医療過誤のHPを見ると、憂鬱になります。

亡くなった方のご家族が、裁判をおこし、つくられているHPが多いのですが、
経過を読ませていただくと、ミスがあったかどうか、なんともいえないことが多い、、、。

むしろ、医者があんなことを言った、あんな態度をとった、などということが
不信感の引き金となって、すべて疑わしく思えているようです。

もちろん、それはいかんでしょ、ってのもあります。
それは医者に過失ありでしょ、ってのも。

そしてご家族は、「真実をしりたい」と裁判を起こしているにもかかわらず、
決して真実にはたどりつけない、、、。
判決がおりたとしても、それは真実ではない。
ただの、法的議論の結果にすぎない。

やはりどう考えても、現行のシステムでは、患者さんも、その家族も、
そして医者も救われないなあと思います。
だって、裁判所って、ほんとうに医学の事を知らないんだもの。

医者は忙しい。
欧米にくらべ3倍以上の患者さんを一人の医者が診ている。
医者の数はすくない。
必然的に、医者から患者さんへ説明に取れる時間が短くなる。
患者さんには不信感が渦巻いている。
それはメディアがもたらすものでもあるんだけれど、、、、。

すくない時間、少ない医者、多い患者さん
その不均衡によって、不満と不信感がどんどんたまっていく。

ああ、いったいこれから日本の医療はどこへむかうのだろう?
崩壊を待つしかないのかしら。


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大叔母さんno [医療]

私には、小さいころから私をかわいがってくれている、大事な大叔母さんがいる。
つまり、母のおば、祖母の妹に当たる人だ。
子供がいないので、
まず母を、その次は私を、さらには私の娘を
自分の娘のようにかわいがってくれている。
もう83歳だ。

料理と裁縫が上手で、(いや、手に何かを持たせると何でも上手)
そもそも洋裁学校の先生を若いころはしていたらしい。
小学校の運動会、母の手作りの弁当のときは
みばも悪く、だれもよってこなかったのに、
大叔母さんが作ってくれたときは、とってもきれいな素敵なお弁当で、
みんながちょうだいちょうだいと、よってきた。

小さいころから洋服もたくさんつくってくれた。
母のウェディングドレスまで縫った人だ。

さて、もう83歳。
さすがに物忘れも激しく、火を使うのは危ないので、
ヘルパーさんに毎日家に来てもらって、食事の用意をしてもらっている。

大叔母さんの旦那さんは、数学の先生だった。
碁が得意で、よく碁会所に行っては、大会では優勝していた。
小学生のころの、わたしのオセロの挑戦相手でもあった。
わたしは数学が得意だったので、大叔父さんがだす問題に挑戦したりもしていた。よくかわいがってもらった。
その大叔父さんは、7-8年前に亡くなった。
老衰、である。
胃がんになって、それは手術だけで完治したのだが、
そのあと食がほそくなって、
大叔母さんはせっせと、消化のよいたべやすいご飯を毎日作っていた。
朝早く起きて散歩し、碁会所に行って、家ではテレビを見て
大叔母さんのからだにやさしいご飯をたべる、
それが大叔父さんの毎日だった。
亡くなる少し前から、だんだん弱ってきていたそうで、(でも家で普通に過ごしていた)定期的に病院で診察は受けていたらしいが、
亡くなる前日に意識が朦朧として、家で倒れたらしい。
大叔母さんが「病院へいこうか?」と聞いたら、
「いやだ、行きたくない」というので、
家で休んでいたそうだ。
そして、いつものように、床を並べて夜眠って、
朝起きたら大叔父さんは亡くなっていたそうだ。

いまどき、病院にいかず、
こんなに安らかに妻の隣で寿命をまっとうできる人間はどれだけいるだろう?
おじさんは本当にうらやましい死に方をしたなあ、と
一族口をそろえて言った。

大叔母さんは、伴侶を失って、しばらく欝になっていた。
食事ものどを通らない、どこにもいきたくない、と
どんどんやせていった。
子供がいないので、主に私の母が家によんで面倒を見ていた。
おいしいものや旅行や買い物が大好きな大叔母さんが
すっかりしぼんでしまって、
私も母も、心配していた。
向精神薬も処方してもらったりとか、
腸の調子がわるく、下痢して脱水になって倒れて救急車をよんだりとか、
とにかく病院ばかりに行っていた。
そういう状態が1-2年続いただろうか。

私が結婚することになった。
医局とかなんとか、めんどうくさかったので、
ハワイで家族だけで結婚式を挙げることにした。
私の結婚を大叔母さんはとても喜んでくれた。
「もう結婚しないのかと思っていたら、あらまあ!」
でも、ハワイなんか行けない、という大叔母さんに
「花嫁姿をどうしてもみてほしい、ハワイなんかハワイ県、っつーくらい
日本だしさ」、と口説き落としてむりやりハワイに連れて行った。
そしたら、あらまあ。
まるでぽとりとつき物が落ちたように、おばさんはハワイで復活した。
きれいな海、穏やかな時間の流れ、
広い空、教会でのコーラス、
あらゆるものが、大叔母さんに命を注ぎ込んだみたいに。
すっかり元気になって
「ハワイ、また行きたいわー。もうどうせ残り短い命なんだし
楽しい思いをたくさんしなくちゃね!」
と、それ以来、買い物も、おいしいものも、旅行も
私の母を引き連れて毎日楽しんでいる。

さて、もともと腸の弱い、しかも便秘もちのおばさんだが、
最近また腸の調子が悪いと言う。
「病院にいったら、バリウムで検査をしましょうといわれたけど、
今日から下剤を飲まないといけないけど、大叔母さんは嫌がっている、どうしよう?」と母からメールが来た。
おばあさんは以前調子が悪かったときに
さんざんいろいろ検査をしていて、そのときもバリウムがなかなかでずに
結構心配した。
もう83歳だしなあ、、、
がんとか見つかっても、どうするよ?と思い、
「本人が嫌がっているなら、しなくていいんじゃない?」とメールした。

そしたら
「ぴょん吉がそういってくれて、踏ん切りがついたわ!」と
おばさんはすっかり元気になってしまった。
それでもまだ腸はしくしくと気になるらしいんだけど、
それでいいらしい。
母も「いまさらがんとか見つかって、手術って言われても
おばさん嫌がるだろうしねえ、、、、。まあぴょん吉にいわれて気が済んだみたいよ」と言う。
がんやなにかがあっととしても、もう寿命でいいそうだ。

ああ。
診察も何もしていない、海外に住んでいる私が
大叔母さんの命に責任を持つことになってしまった。
寿命でいい、つったって、
がんとかになっちゃったら、症状がでてくればしんどいわけで、
小児科医の私には
どういう選択がトータルとしていちばん体に負担がないのか
わからないんだけど。

私が医師として患者さんの前にいたら
検査を勧めるかも。内科の先生のスタンダードはどうなんだろう?

でも、大叔母さんの「腸がしくしくする」は今に始まったことではないしなあ。
ほかの症状はなにもないし、
元気にもりもりおいしいレストランめぐりをしているし、
まあ、検査することないよねえ。

医療費節約に貢献しました。

っつーか、
やっぱりこれでいいんじゃないかなあ、と思う。
年も年だし、不定愁訴もそれなりにずっとかかえてるし。

そんなもんでしょう、きっと。

過剰医療のなかに、こういうのを垣間見ると
(まあ身内だからなんだけれど)
ちょっとほっとするというか。

と同時に、

信頼のおける人、ほかならぬ、かわいい姪が、これでいいよといえば、
それで死んじゃってもいいと
大叔母さんは思ってくれているのだと思う。
このことの重大さを、しっかり受け止めておこう。

大叔母さん、
ぴょんちゃんの花嫁姿は、、、ちょっと無理かなあ。
でも、元気でいてね。


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どうしたらいいのか?その2暴言; 大学病院は必要か? [医療]

医療現場が崩壊しかかっている、といろいろ記事を読みます。
また、大学病院でさえ人手が足らず、地域の中核病院にも医師を送る余裕がない、という記事も見ます。

でも、実は、私は
大学病院なんて、いらないんじゃないか?
と思っています。

理由は一言で言うと、
医療効率が悪い。

とにかく、いろいろ融通が利かないことが多い。まず、何をするにも重大な決定は教授の許可を得なければならない。
しかし、その教授が、論文の数は多いけど、臨床をよく知っているかというと、本人だけ「よく知っているつもり」で、「自分が決定しないと気がすまない」場合、
話は本当にややこしくなる。
帝王切開でさえ、教授の許可が要るという大学の話を聞いたことがある。

医療効率の悪さは、権力を振るいたがる人だけにとどまらない。
あえて、誤解をおそれずいうと、
看護婦さんが働かない大学が多い。
ある大学では、看護婦は患者の精神面をサポートする、などといいつつ、
身体的サポートがあまりに手薄で、「看護婦の仕事でない」と
一般病院ではやってくれる看護婦の仕事をしない。
某大学病院では、夜勤帯は研修医が看護婦の仕事をして、
看護婦は仮眠を取るという話だ。
某大学病院では、点滴をつなげるのは医師の仕事だそうだ。
点滴が終わっても、はずしにこない。
呼ばないと、こない。
点滴が終わったころに、回収しにいく、
抗がん剤の投与中に患者の様子に気を配る、のは
看護婦の仕事じゃないらしい。

大学病院での医療事故が多いのは、
看護婦が「それは看護婦の仕事でない」とプライドだけを主張し、
患者さんの利益をまじめに考えてないのも、その一端だと思う。

で、看護婦さんの仕事を誰がするか?
もちろん研修医ということになる。
ところが、このたび始まったローテーションのシステムで、
看護婦代わりをしてくれる研修医がいなくなったので、
大学は人手不足になった、という始末なのである。

さて、この「看護婦の仕事」にベテランになった研修医は
医師として大学病院で何を学べるかというと、
何も学べない、のである。
手技はへたくそ、大学病院でおこなわれる高度医療は理解できていない、
そのわりにはその高度医療を自分がした気になっている。
傲慢さと卑屈さを身に着けただけで、
体は極度に消耗し、
医師として学ぶべき、基本的手技、基本的診察の技術、
一般的に多い症例の診断、
は何一つ身についていないのである。

こんな大学病院で、少なくとも医師は初期研修するべきではない。

しかしながら、大学病院にも価値ある場合はある。
たとえば地方国立大学。
その県の高度医療ができる病院がそこしかないのであれば、
それは住民にとってたいへん重要な価値を持つ。
そういう地方国立大学にいくと、
看護婦さんの質もまた変わってくる。
よく働き、患者さんの様子を観察し、医師へ早い段階で変化を報告してくれる。
そうなると、医師は格段働きやすくなる。

とにかく、大学病院が高度先進医療をする場所なのであれば、
まず
研修医はそこで研修すべきではない
(あかちゃんが車を運転するようなものだ)
柔軟な対応ができるスタッフで行うべきだ
(教授、医師、看護婦その他すべて)

しかし、そういう場所は大学でなくていいのだ。

センター化されている病院では
看護婦さんはそれはよく働く、気がつく、
それはすばらしい働きをする。
医師と看護婦さんは、患者さんを治すという同じ目的のもと
一緒に医療に取り組む。
給料も国立の大学病院よりずっといい。
あほなことを指導する教授もいない。

ずばり、いいましょう。

研究機関としての大学は必要だけれど、
臨床病院としての大学病院なんか、必要ない!!

大学病院のひずみは、教授権力によるひずみだけでなく、
看護婦さんの仕事振りにも、かなり重大な問題があるのに、
なぜ放置されているのだろう??


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どうしたらいいのか?その1 [医療]

みなさん、衆議院厚生労働委員会での奥田美加先生の発言をお聞きになりましたでしょうか?

身につまされました。胸が痛くなりました。

大学病院のNICUで戦っていた日々を思い出しました。

わたしはあのころ独身だからできたけれど、

小学生のお子さんいながら、第一線で体を張って、いや、身を削って働いておられる奥田先生は、ほんとうにすごいと思います。

なぜ、こんな状況下で厚生労働省は「医師は足りている」といえるのでしょう?

 

どき。

わたしとわたしの夫のように、医師免許を持ちつつアメリカ在住の人間も

医師の数にはいってるんでしょうね。ごめんなさい。

胸が痛みます。

わたしはいま、あの戦場のような第一線から身を引いて、

アメリカで研究をしています。

私のように、医師免許をもちつつ、留学中の医師はたくさんいるはず。

うーむ、、、、

 

 

いったい、どうしたら、いまの日本の医療現場は救われるのでしょう?

いろいろ考えたいと思います。


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人が死ぬということ [医療]

医者と医者でない人の温度差は、
「死」との距離ではなかろうか、と友人は指摘してくれた。
たしかに、普通に暮らしていると、「死」とはなかなか縁がないはずだ。

いまでも思い出すのが、研修医のとき。
わたしは救急救命センターで研修をしていた。
1次から3次救急すべてを見るシステムの救急病院で、
とにかくいろんな患者さんが来た。
交通外傷、心筋梗塞、脳卒中、自殺未遂、溺水、工事現場での事故、刺傷事件、、、。
DOA(到着時死亡)でこられた患者さんは、ほとんどの場合、助からない。
30分救命処置を続けて、心拍が戻らなければ、その旨を家族のかたにお伝えして、救命処置をやめることになる。
交通事故などの場合、朝元気で家を出て行ったお父さんが、突然帰らぬ人となるのだ。わたしは、ご遺体の横で、搬送されたときの状況、その後の経過を説明し、頭をさげる。家族の方の衝撃と悲しみは突風となって私を貫く。それは目に見えないおおきなうねりで、私はとばされないように足をを踏ん張らねばならない。真っ暗な闇の中にわたしも落ちていきそうになる。
人が亡くなるということは、こういうことなのだ。

元来私は涙もろい。
とにかく、感情が高ぶると、涙が出てくる。
怒っても、悲しくても。
いや、むしろ怒っているときにこそ、涙が出てくる。
いずれにせよ、
わたしは泣き虫であると同時に忘れんぼうである。
泣くと、きれいさっぱりわすれて、すべてを(怒ったことも、悲しいことも)水に流せるという、まあ楽な性格でもある。
だからこそ、医師になって、決して泣いてはいけない、と決めた。

患者さんが亡くなったときは、決して泣くまい。
医師は泣いてはいけない。
泣いて流してしまってはいけない。
この無念さを、体と心に刻み付けて、生きていかねばならないのだ。

*****

私の20年ほど先輩の上司のK医師が亡くなった。
当時、「最近腰が痛くてなあ、わしが持っている患者も、ちょっとみとってくれな」、と言われ、「はい。でも先生も受診されたほうがいいんじゃないですか。おつらそうです。」と言った。
そのころ、私は小児科になって、5年目、重症の患者さんも任されるようになり、
小児血液を専門とするため、白血病や小児がんの子供たちをたくさん受け持っていた。その上司の先生は、わたしに無言でいろんなことを教えてくださった。
わたしに、「これをしておけ」というのではなく、自分ですべて行動されるのだ。
わたしが書いたカルテをチェックし、足りない検査やカルテ記載を、だまって追加される。わたしはそれをみて、「あや!やられた!」と思うのだ。まだまだ足りないらしい、、、。40も後半になって、夜遅くまでカルテとにらめっこし、いつもじーっと患者さんの様子を観察し、診察し、尊敬すべき先生だった。

「K先生がな、Neuroみたいなんや」とK先生といつもコンビを組んで小児がんの治療に当たっているT先生が私に告げた。
「え?Adult Neuroですか?」
NeuroとはNeuroblastoma(神経芽腫)の略で、小児がんのひとつである。1歳未満の予後は極めてよいが、1歳以上で発症する進展した症例は、難治であることが多い。しかし成人では極めてまれである。
「とにかくNeuroとしか思えないようなCT画像や。両側副腎から大動脈を巻き込んで、肝臓、横隔膜にも進展して、とにかく腹が腫瘍だらけなんや」

私は絶句した。腰が痛いと最近いっておられたけど、、、。
同時に涙がこぼれた。
大動脈を巻き込み、肝、横隔膜に進展、、、、。
どんなCTか見なくても想像がつく、と同時にこれからの治療がいかに壮絶になるか、、、ああ、K先生!
私はそのとき、医者ではいられなかった。尊敬するK先生を失ってしまうであろう、確信にちかい予感に泣いた。

K先生は、自分の患者さんに行うような治療を、自分にも希望された。
医師が、人生の瀬戸際で、いつも自分が 子供たちにしている治療を自分にも希望する姿は、その信念を感じることができた。
最後まであきらめず、戦った。

*****

お産はこわい、ということを私は知っている。新生児医療もしてきたので。
何も問題のかなったはずの産婦さんに突然とんでもないことがおこったりする。
母子ともに命からがら生まれてくる。

重症新生児仮死で、新生児科医たちがよってたかってなんとしようとしたけど
その日のうちになくなった赤ちゃんもいる。
できることすべてやっても、
救えないのだ。
医者はなんて無力なのだろう。
たった数時間のために生まれてきた命。

ひとは皆、死ぬということしか、平等じゃないのだ。

*****

医者は、患者さんの治療は、それが自分や自分の家族であっても同じことをする、ということは
大前提だと思う。
当たり前のことだけど、患者さんには、医者がそう思っているのだと、知っていてほしいなと思う。
でも、家族の主治医はできない。
情にながされると、医学的に正しい判断ができなくなるから。
でも、少なくとも私は、
いつも患者さんのことをとても大事に思っている。
病気を治療する、という同じ目的をもっているのだから、
きっとわかり合えると信じている。
たとえ、どれだけ患者さんから罵倒されることがあったとしても、
その人が目の前で苦しんでいたら、精一杯の治療をおこなう。
それが医者だと思っている。

*****

今日の想い

わたしは子供たちの死を背負っている。
亡くなった子も、元気になってくれた子も、
私を支えてくれているのだ。


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医師の過失について考える2 [医療]

医師の過失とは、「刑事においては、常軌の医療行為を逸脱するもの」

と定義したい、と書きました。

逮捕されるべくは、書類送検されるべくは、こういったものかと思います。

しかし、現在のところ、常軌を逸脱していなくても、書類送検される例も増えてきました。医師の「ミス」で患者さんが最大の不利益である「死」を被ったときなどです。(今回の福島県立病院産婦人科医逮捕の事件では、医師のミスも明らかでないところに、民事訴訟でも、書類送検でもなく、「逮捕、拘束、起訴」となったことで医療関係者に衝撃が走ったことは、前に書いたとおりです。)

次に考えるべくは、通常の医療行為の範囲内で起こった過失、事故についてです。

過失がなくても、患者さんが不利益を被ることがあり(医療事故)、医療裁判となっているケースもあります。これについても考えねばなりません。

過失、事故にはいろんな段階、幅があります。ですから一言でかたずけられませんが、ひとつづつ縄を解いていきたいと思います。

 

まず、「通常の医療行為の範囲で起こりうる過失」とはなにか。

 

段階をつけて考えてみます。

1、明らかな単純ミス

処方箋の間違い、点滴指示のまちがい、などです。この場合、看護婦さん、薬剤師さん、上司の医師の発見などで未然に防げていることも多々あります。しかし、タイミング悪く、ミスがスルーパスされてしまうと、またその薬が抗がん剤など副作用が致死的であったりすると、患者さんが不幸な転帰をとることもあります。

 

2、合併症として、通常想定される事故

中心静脈カテーテル挿入時の動脈損傷など、外科手術時の合併症など。

いわゆる、うまい医師がやれば、あんまり起こらないけど、熟練していない医師がすると、そういうこともありうる、とか、熟練した医師でも往々にして、一度や二度はそのような事故の経験がある、などといったことです。

人の手で行う限り、いつも100%完璧というのは、現実的に不可能なためおこりうることです。

こういう「予想される合併症」というものは、処置を行う際の同意書にほとんど記載してあり、患者さんやその家族は、*一応*処置の前に、そういうことがおこりうる、ということは知らされているはずで、同意の署名もしています。

でも、その「予想される合併症」の結果、亡くなってしまうとまでは、医師も患者さんも、予想していないし、同意しているわけではないでしょう。予想される合併症の結果、死や重篤な後遺症が残ってしまった場合、医療事故として取り扱われます。

 

3.予期せぬ医療事故

2と連続する部分があるのですが、医療で治療を行う際、想定しうる悪い結果、というのはあります。薬の副作用であったり、前述した合併症であったり。これらは通常、最悪そういうことも起こりうる、と医師は心の中で思いつつ、そうならないように注意しながら治療をすすめます。

しかし、時として、予期しないことはおこります。予想範囲内であっても、対応しきれないくらい、事態が悪く進んでいくこともあります。不可抗力というか、医師が医療の限界を感じるのも、こういうときであったりします。

こういう事故は、医師に過失があったとはいいにくく、しかも患者さんからすれば、なおさら何が起こっているか、理解しにくいでしょう。

こういうケースは医療訴訟になりやすく、泥沼化することあるんじゃないかと思われます。

そして、2の合併症として通常想定される事故、と区別がつきにくい場合も多々あるので、評価が難しく、専門家でないと判断できないケースであったりもします。

 

4.医師の見逃し

おお。おそろしい題目です。こんなこと書いていいんでしょうか?

しかし、実際に現場ではおこりえます。

言い訳がましく書きますと、患者さんをはじめに診る医者は不利です。

病気には、「診断しごろ」の時期というものがあります。

早すぎてもわかりにくいし、遅すぎたら手遅れになったりします。

そういう意味では「後医は名医」というように

条件がそろったころ診断したり、自然経過で直りかけのころに診る医者は、名医ということになりがちです。

とはいいつつも、やっぱり医師は見逃してはいかんでしょう。

そのために日夜修行を積んでいるわけで、、、。

よくわからないが、このまま患者さんを帰すのはなんだかいやな感じがする、

なんだかどうもへんだ、という

医師としての勘も、意外とすこぶる大事だったりします。

で、見逃してはいけない重大な病気、病態は、山ほど存在します。

しかしまた、診断するのが極めて難しい状況や、100%診断できない病気などもあります。

 

 このようにみてくると、

1の単純なミス、については過失は明らかです。

しかし2、3、4になってくると、すこし様子は複雑です。

医師が一人前になるには10年がひとつのめやす、といいますが、

まさしく、新小児科医のつぶやき、というのブログに書いてあるとおりです。

熟練するには、経験が必要で、誰しも初めての時はあり、

熟練にいたる経過で、いつも完璧に処置をするというのは不可能だからです。

また、人の手が行うことなので、これまたいつも100%というわけにはいかないのも事実です。

なに甘えたこと言うてんねん、といわれるかもしれませんが、

わたしはここで開き直っているのではなく、

0にできない事故に対して、なんらかの制度が必要だと、

痛切に感じているのです。

 

これまで、医療事故、過失は報道を見る限り、

病院側が謝罪し、慰謝料を支払い、和解、担当医師、看護婦が書類送検される、というパターンが多いように思います。

(医療事故が隠蔽されているようなケースについてはよく知りません。そういうことがあるから、医療不信が高まっているのかもしれませんが)

しかし、わたしはむしろ、

医師が医師を裁くべきではないかと感じています。

というのは、最近の高度医療は専門性が高く、医師同士の間でも、専門が違えば、是か非か問えないことも多々あるからです。

ですので、医療を評価する第三機関を設立し、

そこには全診療科の臨床経験5年以上10年以上20年以上といったかたちで、年齢もばらつかせて、専門医が常勤し、

医療事故に対する調査委員会を設置し、評価する、というのはどうなんでしょう?

そして、医療事故に対してしかるべき処分を決定する。

それは医師免許停止とか、免許剥奪もありうるかもしれないし、

書類送検よりむしろ厳しい処分かもしれませんが、、

隠蔽も医師同士のかばいあいも許さず、公平に高度な専門性を持って評価する機関が必要だと、思います。

 

また、不可抗力の医療事故にたいしては、患者さんには無過失保障の制度が適応されるべきではないでしょうか?

医療事故が0にはできない以上、またその性質上、不可抗力の事故が存在する以上、

なんらかの救済処置があってしかるべきだと思います。

 

わたしはこれらの制度を語るには、まだまだ勉強不足で突っ込みどころ満載かもしれませんが、

ご意見のある方は、ぜひご教授ください。

 

さて、ここまで書いて、はた、と気づきました。

わたしは医者になって若干13年ですが、

いままでこのような制度の必要性に気づかずにいました。

医療界は気づいていたんでしょうか?

厚生労働省は気づいているんでしょうか?

これだけ高度医療が発達し、世界に誇れる医療レベルを維持していながら、

負の側面に対し、その対応、制度を整備してこなかったのでしょうか?

 

この福島の事件をきっかけに、

医療制度のいろいろな不備を改善していくことができればなあと

アメリカにいるんですけれども、

そのように思います。

 

*****

今日の問題提起

通常の医療範囲内でおきた、医療事故にはどう対応するべきか?

第三機関の設立

無過失保障の制度

を考える。

 


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医師の過失について考える [医療]

福島県立大野病院産婦人科医の逮捕、起訴をきっかけに、

わたしも医者のはしくれとして、いろいろ毎日考えます。

新小児科医のつぶやき

というブログでは、開業されている小児科の先生が、

もっともなコメントをされています。

一小児科医として、このブログを読むにつけ、うなづくばかりです。

 

私は、いまは基礎研究に従事する身ではありますが、

小児科医としての志は捨ててはいません。

今回の事件で、

私なりに、一医師としてできることは何か、

考えるべきことは何かを考えたいと思います。

*****

病院を受診して、医者に対して不信感を感じたり、

怒りの気持ちをもっておられる方は決して少なくないでしょう。

医者の側にもいろいろ問題があるのは確かです。

医者は大学出てすぐ「先生」といわれ、

医療のすべての場面で「指示を出す立場」におかれる。

患者さんも看護婦さん(あえて看護婦さんと書きます。この呼び名のほうがすきなのです)には悪態ついても、

医者にまでそうするひとはあまりいません。

高校までは大学受験のために勉強ばかりで世間知らず、

世間知らずのまま医者になり、ちやほやされる。

人の痛みがわからない医者もいるのは事実です。

医者がミスをすると、それみたことか、とここぞとばかりにマスコミははやしたて、医者は悪者です。

医者に過失があるから当然じゃないか、とみなさんは思うでしょう。

過去に医者不信の思い出がある方はなおさらかと思います。

でも、ちょっとまって。

ここでちょっと考えてみてください。

医者に過失がある場合、

そうです、それは認めるべきです。償うべきです。

しかしながら、

「どうやって?」

医者は過失があった場合、どうやって償うべきなのでしょう?

 

では、もうすこしもどって考えてみましょう。

医者の過失、ってなんでしょう?

どういうことが医者の過失になるんでしょうか?

 

今回の事件は、まさに医療事故の基本的定義に触れる、重大な事件です。

なぜなら多くの医者は、

今回の事件で、報道からの情報をもとに、

1.加藤医師には明らかな過失がみあたらない

2.たとえこれが過失で問われるとしても、逮捕されるなんてことはありえない、

ということで意見が一致しているからです。

 

医療事故には、過失が明白なものと、そうでないものがあります。

むしろグレーゾーンが多い領域です。

故意に患者さんを傷つけたとあらば、それは刑事罰を受けるべきでしょう。

しかし

医師が良心に基づき、最善と思われる医療行為をしていても、

患者さんが亡くなることはあります。

あとで、

その治療方針は最善ではなかった、むしろその投薬が悪さをしたのだ、と

いうことは可能です。

でも、

患者さんは一人しかいない。

同じ患者さんに二つの治療効果を比べることはできないのです。

医師はその場において、治療法を選択しなくてはいけない。

もちろん緊急でない場合は、患者さんと相談し、

必要ならセカンドオピニオンとなる病院なども紹介し、

じっくり取り組むことも可能です。

しかし、

命にかかわる事態であるとき、

高度先進医療で患者さんが選択できない内容のとき、

医師は選択せねばなりません。

病状が難しくなればなるほど、なにが最善であるか、誰も言えないのです。

わたしは

医師の過失とは、

刑事においては、常軌の医療行為を逸脱するもの、

と定義したい。

 

*****

私は加藤医師がどういう方か、まったく知りません。

ですから、なぜ加藤医師を応援しているのか、と問われると、

この件が刑事事件として検察側の勝訴となると、

医療システムが崩壊し、むしろ患者さんの不利益になると考えるからです。

 

過失はなくても、不幸にして患者さんが亡くなるケースはあります。

判断の難しい病気、状況はたくさんあります。

それが結果次第で逮捕、ということになると、

医師の誰もが難しい病気をみると、一定の率で逮捕される、ということが

起こりうります。人は最善の治療を受けていても、死ぬ時があるのです。

医療には限界があるのです。

するとどうなるでしょう?

不可抗力の転帰により逮捕されるのであれば、

だれもそんなリスクは負いたくありません。

難しい病気はみたくない、ということになります。

(もっとも医師には患者を拒む権利はありませんが)

お産はだれもとりたくないかもしれません。

実際、お産をとらない婦人科が増えている現実もあります。

お産は一生の間で、母子ともに生死を分ける一大事なのです。

 

だれもお産をとらなかったら、どうなるのでしょう?

国の少子化対策はどこへやら。

子供を産みたい女性は、

田舎ではおそらく県に一つか二つくらいの、

産婦人科医がたくさんいて、小児科医もたくさんいて

輸血がたくさん手に入る病院でしか、お産はできなくなります。

その病院が車で2時間かかったりすることもまれではなくなるでしょう。

 

****

今日の問題提起

医師の過失とはなにか?

医師の過失の際、医者はどうやって償うべきか。またはどういう罰を受けるべきか。

そもそも、

過失から、または過失の後も、どうやって患者さんは守られるべきか。

その制度はどういうものが望ましいのか。

 

声を大にしていいたいのは、

医者はつねに、患者さんにとって最良であるようにと考えています。

病気を治したい、という思いは、患者さん自身と同じなのです。

どうか、そのことを、まずみんなに知ってほしい。

 

 


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加藤医師の逮捕、起訴に抗議します [医療]

ある産婦人科医のひとりごと;福島県大野病院の医師起訴についての報道

この事件の報道をはじめて聞いたとき、わたしはふうん?とぼんやりと眺めていた。

が、上記のブログで詳細を追っていくと、

どうやらこれはとんでもない、医療の危機につながる事件だと認識した。

 

この件は、刑事事件としてあつかってはならない

100人の医師が100人とも10例以上経験したことがあり、

99人が「それは絶対しちゃいかん」というようなことを、

加藤医師がしてしまったのであれば、刑事事件もやむをえないかと思う。

しかし、

胎盤癒着というまれな病態で、

多くの産婦人科医が経験するかしないか、

どういう処置をすればいいかという医学的議論の分かれるような事に関して 、

なぜ警察が判断できる?

医学的に最善であろうという答えは、後からなら誰でも言える。

その場、その状況、その患者さんで、

医師が最善として行った行為で、

なぜ、逮捕され、刑事事件として起訴されるのか?!

ご遺族の悲しみは計り知れないものだとお察しします。

でも、

これは民事で争うことであり、警察が関与することではないはず。

一人医長として、町の医療に貢献してきた医師の医学的判断が間違っていた、

と警察が判断するのか?

多くの医師が、やむおえない事態だったと言っているのに?

これで、刑事事件として逮捕され、起訴されるのであれば、

医者はいつ逮捕されてもおかしくない。

警察が医療に介入し、権力を行使するなんておかしい!

 

医療ミスがあれば逮捕になるのか?

医療ミスがあったかどうかが、争点ではないはずだ。

刑事裁判においては

常軌を逸脱した医療行為であったかどうかが問われるべきだと思う、

医療ミスかどうかは民事で争うべきことだ。

そして、すでに病院は民事としての、報告書を作成し、

遺族に開示したのだと思われる。

 

そもそも、医療に携わっている限り、

ミスは死につながることもまれではない。

そして、医師は人間である。

ミスのない人間なんていない。

ましてや過重労働をしいられるシステムのなかにおかれている日本の医師に

ミスをまったくするなと?

そしてミスをしたら逮捕ですか?

 

そして、今回、ミスかどうかは自明でないのだ!!

 

ああ、同じことを何回も繰り返し言っているが、、、、

 

これからの医療はいったいどうなるんだろう、、、。

わたしは日本に帰って、はたして臨床にもどるだろうか?

*****

今日手に入れたもの

憤慨

 


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